茨城県の葬儀における作法としきたり
関東地方の北東に位置する茨城県は、地理的特徴や歴史などの影響から文化習俗が複雑に入り組んでいます。
東北地方と関東地方の両方から文化的な影響を受けており、さまざまな信仰が入り混じった独特の葬送習慣が育まれているようです。
そこで本記事では、茨城県の各地に残る葬儀のしきたりや習慣を紹介します。
地元で長く葬儀に携わってきた葬儀社様でも、県内全域の葬儀に精通する方は限られると思いますので、参考にしていただければ幸いです。
もくじ
神道の影響を強く受けた茨城県の葬送習慣
茨城県の葬儀では神道の影響を受けたしきたりが多く、神道の葬送儀式である「神葬祭(しんそうさい)」も珍しくないようです。
しかし正式な神道の作法に則った「神葬祭」ではなく、仏式と神式のハイブリットといった式次第になっているケースも少なくありません。
茨城県で神道が大きな影響力をもつ理由
茨城県の県庁所在地である水戸市は、ご存じの通り「黄門様」で有名な徳川御三家の旧水戸藩です。
水戸藩二代藩主 徳川 光圀(とくがわ みつくに)は「大日本史」の編纂など文化事業を推進したことでも知られています。
しかし強い尊皇思想(そんのうしそう)から神道の復興を目指して仏教を弾圧し、領内の多くの寺院を破却(はきゃく)したことは、一般の方にはあまり知られていません。
さらに9代藩主 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)も仏教を嫌い、神仏分離と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を進めました。
その結果、現在の茨城県内には寺院が皆無(かいむ)となった地域も多く、その影響が現在まで続いていると思われます。
徳川 光圀・斉昭は歴史上の名君とされていますが、仏教に対する姿勢には非常に厳しいものがあったようです。
こういった経緯を考えると、茨城県の葬儀におけるしきたりに神道の影響が多くみられるのは、水戸藩時代から明治時代にかけて行われた仏教弾圧の影響が大きいようです。
近年まで行われていた土葬
神道では日本古来の弔いは土葬という考えが主流で、明治政府による神道国教化政策の一環として廃仏毀釈が行われた時期には、火葬が禁じられたこともありました。
他の地域にくらべ、葬儀のしきたりにも神道の影響を色濃く残す茨城県では、近年まで土葬が行われていました。
火葬率99.9%以上と世界有数の火葬大国となった日本ですが、「墓地・埋葬等に関する法律」でも土葬自体は禁じられていません。
そのため現在でも土葬可能な霊園がわずかながら存在し、茨城県常総市の土葬専用霊園「朱雀(すじゃく)の郷」もその一つです。
お浄め(おきよめ)は塩と鰹節(かつおぶし)
茨城県の大洗町や水戸市周辺では、葬儀場の出入口に塩と鰹節(かつおぶし)が山盛りに用意されており、弔問を済ませた方は塩と鰹節の両方を体に振りかけて「お浄め(おきよめ)」を行う習慣があります。
また地域によっては、葬儀後に鰹節を食べながらお酒を飲むことで「お浄め」とする風習もあるようです。
日本では葬儀参列後に帰宅した際、塩で「お浄め」を行う習慣が広く行われていますが、実は仏教由来のしきたりではありません。
「死」を穢れ(けがれ)として捉えるのは神道の考えによるもので、葬儀後の「お浄め」という行為自体も神道由来です。
神道における神様への供え物を神饌(しんせん)といいますが、古来より鰹節もそのうちの一つとされています。
こういった事情から、茨城県では「お浄め」に鰹節を使っているようです。
七日さらし
茨城県の猿島郡周辺地域では、家の裏手に故人の着物を北向きに掛けて、濡れたまま7日間干し続ける「七日さらし」という風習が残されています。
常に濡れた状態を保つために、季節によっては日に何度も水をかけ続ける必要がありますが、この風習の由来については定かではありません。
しかし基本的には「お浄め」に結びつく習慣といわれており、やはり神道に関係するようです。
豆腐を1丁食べる
関東地方では、葬儀の際に豆腐を食べるしきたりが広い範囲で行われていますが、これも「お浄め」につながる習慣といわれています。
茨城県の一部地域では、1人で豆腐をまるまる1丁食べることもあるようです。
日本では古来より「白」を清浄な色とする考えがあり、死穢(しえ)を払う力があると信じられていました。
明治時代以前は喪服も白が一般的とされており、石川県では今でも喪主が白装束を着用するしきたりが残されています。
ざる転がし
茨城県では、自宅から棺が運び出されたのちに、遺体が安置されていた場所に目の粗い籠をおいて、箒(ほうき)で掃き出す風習があります。
こうすることで魔物や悪霊が籠の目からこぼれ落ち、退散すると考えられているようです。
このしきたりも「お浄め」に結びつく葬送習慣といえるでしょう。
故人の成仏への願いを感じる葬儀のしきたり
故人を思う遺族の気持ちは、信仰する宗旨宗派は違っても共通する部分が少なくないでしょう。
茨城県には、故人の成仏への願いを強く感じさせる葬送習慣が、今でも数多く残されています。
放生(ほうじょう)
茨城県の葬儀では、捕まえた生き物を解き放つ「放生(ほうじょう)」を行う風習があります。
「放生」に用いるのは動物や魚・鳥などが多いですが、茨城県ではハトを放つケースが多いようです。
殺生(せっしょう:生き物の命を奪うこと)は、仏教の戒律の中でも最大の罪とされており、逆に命を救うことで功徳(くどく)を積めるという考えがあります。
「放生」もこの考えにもとづいた行いであり、遺族が故人に代わって功徳を積むためのしきたりです。
故人が浄土に転生できるかどうかは、生前に犯した罪や積んだ功徳に左右されるといわれています。
そういった意味で「放生」は、故人のためにできるだけ多くの功徳を積ませたいという遺族の願いが込められた風習といえるでしょう。
撒き銭(まきせん)
茨城県では、長寿を全うした方の葬儀の際に、目の粗い籠に小銭を入れて振りまくという風習があります。
撒かれた小銭を拾って持ち帰ると、長寿にあやかって長生きできるといわれていますが、現在では小銭の代わりにキャラメルなどのお菓子を撒くケースも多いようです。
同様の風習は「長寿銭(ちょうじゅせん)」と呼ばれて日本各地に残されていますが、この習慣には「布施(ふせ)」の意味もあります。
金品や食べ物を他人に施す行為は「浄財(じょうざい)」と呼ばれ、功徳を積む行いとされているようです。
こういった点を考慮すると、「撒き銭」の目的も「放生」と共通といえるでしょう。
出棺時のしきたり
茨城県では玄関付近に竹などの「仮門」を設え(しつらえ)て、出棺の際にくぐる習慣があります。
「仮門」は出棺後すぐに壊されますが、これは「故人の魂が戻ってこられないよう」にするためとされています。
かつて土葬が行われていた頃は、遺族や近隣住民が葬列を組み棺を担いで、埋葬地まで人力で運んでいました。
こうした儀式は「野辺送り(のべおくり)」と呼ばれ、日本各地で行われていたようです。
この「野辺」という言葉の本来の意味は文字通り「野原」ですが、「人里離れた場所」という意味を内包しており、この世ではない場所とも捉えられています。
そのため出棺時に設置する「仮門」は、あの世とこの世の境目という意味ももっているようです。
出棺時の作法は「仮門」だけではなく、棺を左回りに3度回す、または棺の周りを遺族や参列者が3周してから出棺するといった風習も一部地域に残されています。
この風習の目的も「仮門」と同じで「故人の方向感覚を失わせて戻れなくする」ことです。
こういった習慣の根源には「故人の魂が迷うことなく成仏してほしい」という遺族の強い願いが込められています。
副葬品の藁人形(わらにんぎょう)
茨城県では、葬儀の際に副葬品として「藁人形(わらにんぎょう)」を棺に入れるしきたりが残されています。
この風習は「あの世へ旅立つ故人の魂が寂しくないように」との考えから行われているようです。
同時に「寂しさのあまり周りの人々を連れて行かないように」という願いも込められていると考えられます。
葬儀における近隣住民の助け合い
かつて葬儀は集落の全員が助け合って行うものでしたが、核家族化が進む現在の日本では、都市部を中心に見られなくなった光景となっています。
しかし茨城県では、現在でも近隣住民が助け合う姿を見かけることがあるようです。
ろくしゃく(六尺・陸尺)
茨城県では、近所の家に不幸があると「ろくしゃく(六尺・陸尺)」と呼ばれる数人の男性が、葬儀を手伝う習慣が受け継がれています。
かつて土葬が主流だった時代には、「ろくしゃく」が棺を運ぶ・墓穴を掘るといった仕事を担っていました。
「ろくしゃく」は近隣住民が持ち回りで担当していたようで、埋葬を終えると一番風呂に浸かり、酒肴(しゅこう)のもてなしを受けるのが通例となっていたようです。
火葬が主流となった現在では「ろくしゃく」が墓穴を掘ることはありませんが、今でも鉾田市周辺地域では納骨時に「ろくしゃく」がお墓周りを清掃し、天蓋を設置するしきたりがあります。
そのため「ろくしゃく」が喪服を着用することはなく、作業着姿が基本となっているようです。
組・班
茨城県では、葬儀の際に「組」や「班」とよばれる隣近所の住民が、喪家(もけ:身内に不幸があった家)を手伝うしきたりがあります。
かつて日本では、地域の自治組織の最小単位として、10軒ほどの家が集まった「隣組(となりぐみ)」や「隣保班(りんぽはん)」と呼ばれる相互扶助組織が機能していました。
この「隣組」「隣保班」が省略されて「組」「班」と呼ばれるようになったと考えられます。
こういった近隣住民の相互扶助組織は、茨城県内でも都市部では徐々に消えつつあるようですが、郊外や農村部では今でも守られているようです。
紅白水引の「病気見舞い」
茨城県では、病気療養中だった方が亡くなった際に、紅白水引の付いた祝儀袋に入れた「病気見舞い」を、お香典とは別に包む習わしがあります。
「病気見舞い」は、主に故人が病気療養中にお見舞いに行けなかった方が行う習慣ですが、事故などで急に亡くなった場合にも、遺族に渡されることがあるようです。
鹿嶋市周辺地域では、故人に付き添う遺族の食べ物の費用として「通夜見舞い(つやみまい)」を渡す習慣もあるため、通夜から葬儀のあいだに3つの封筒が必要といわれています。
ものを無駄にしない茨城県の葬儀
戦後の物資不足の時代に、日本では冠婚葬祭行事を質素に行い、金銭的な負担を軽減することを目的とした「新生活運動」が盛んに行われていました。
現在では見かけることも少なくなりましたが、北関東では群馬県を中心に今でも「新生活運動」を推進している自治体があります。
こういった事情から、茨城県の葬儀では供花や供物を無駄にしないための習慣が続けられています。
供花のポスター
一般的な葬儀では大量の生花を用いるケースが多いですが、茨城県の葬儀では供花の写真を印刷したポスターが利用されます。
ポスターには供花と同額ほどの金封が添えられており、葬儀後に集められた金封は遺族に渡される仕組みです。
遺族の生活費の足しとして供花の代わりにお金を渡し、なお且つ生花を無駄にしないという非常に合理的な習慣といえるでしょう。
芳名板・芳名版(ほうめいばん)
近年では葬儀に生花祭壇を用いるケースも多いですが、茨城県では供花を贈る代わりに一定額を葬儀社に納め、生花祭壇の費用に充てる習慣が行われています。
木札に費用を出した方の名前を記載したものが葬儀場に張り出されますが、これを「芳名板(ほうめいばん)」と呼びます。
この習慣により葬儀費用の負担が抑えられるため、遺族にとってはありがたい習慣といえるでしょう。
盛り籠(もりかご)
茨城県の葬儀では、故人へのお供え物として「盛り篭(もりかご)」を贈るのが一般的です。
祭壇に飾るのは籠に果物や缶詰などを入れた「内盛篭(うちもりかご)」ですが、式場の外に飾る「外盛篭(そともりかご)」もあります。
「外盛籠」は一般的な花輪にあたるもので、花輪の内側に缶詰などが納められています。
供物として贈られた「盛り篭」の中身は、葬儀を手伝っていただいた方々に配られるのが通例となっているようです。
東北地方の影響
関東地方の北東に位置する茨城県は、県北部が東北地方の福島県と接しているため、葬儀におけるしきたりにも東北文化からの影響が見受けられます。
しかし葬送習慣の形式こそ似ていますが、内容には若干の相違があるようです。
骨葬(こつそう)
茨城県北部では、葬儀の前に火葬を済ませたうえで、祭壇に遺骨を安置して行う「骨葬(こつそう)」の習慣があります。
冬は深い雪に覆われる東北地方では、訃報を受けても親族が集まるのに時間がかかったため、遺体の腐敗を防ぐために葬儀前に火葬を済ませる「前火葬」の習慣が根付きました。
茨城県の「骨葬」も葬儀の流れとしては同様で、通夜→葬儀・告別式→火葬となります。
しかし茨城県で「骨葬」が行われる理由としては、腐敗を防ぐことよりも死穢を避ける意味合いが強いようです。
このあたりにも、神道から受ける影響の強さがうかがえます。
葬儀当日に納骨
全国的に納骨のタイミングは四十九日の法要を済ませた忌明け後が一般的ですが、茨城県では葬儀当日に納骨するケースも少なくありません。
東北地方や北陸地方では、忌明けの時期が冬になると納骨が困難になるため、葬儀当日の納骨は珍しくありません。
しかし茨城県の場合は、土葬時代の習わしが今に続いているようで、東北地方とは事情が異なるようです。
土葬が主流だった時代は葬儀当日に埋葬まで行うのが一般的で、茨城県で「骨葬」が行われるのも、葬儀当日に納骨するためという説もあります。
おわりに
葬儀社様ホームページのコラムとしてこのような記事の掲載をおこなっておくと、喪主様・ご遺族様・ご参列の方々も分かりやすく、興味を持たれる内容かもしれません。
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